昭和43年02月05日 夜の御理解
神様は私達に、今どうあって欲しいと言う願いを持っておいでられる、どうあってくれれば( ? )どうあったら良いかと、それはもう( ? )にということなんですけれども。過程、道すがらと言うものはなかなか始めからそう打ち込めるもんではない。素直にもなれないのです。あれはあの誰がうたったのですかね。あのう「ネオン川」という歌がありますね。なにか言っていましたけれど。浮いた浮いたの酒を飲み、そのまえのとこは何だったですかね。
何とかに流された。何て言うですかねあすこは。原さんなんて言うたですかね。皆んなが唄うんですけど私しゃ、今日はね、あそこの所のこうリズムを頂くんですよね。次にはあのう、世界は二人の為にあるのと言う歌があるでしょ。あれ、その二つを頂くんですよ。まぁ飲むまいと思うておったけれど、まぁどう言う意味でしょうかね。あのういつの間にか流されてしまうと言う様な意味でしたですね、あのネオン川。そしてその浮いたその時になっておると言う意味なんですかね。
そういう歌詞なんですけれども。お互いの信心もですね。入口と言うものはそれほど誰でもさほどではないのですよ。何かそこに一つの入り口になる問題を持っております。それは非常に深刻な問題を持って御教えに取り組む人もあれば、さほどでもないけれども。まぁいうならば子供の入学試験のおかげを頂きたいと言った様なところから、入って来る人もあるんですよね。というと浮く打つか沈みかと言う様に、その大変なそのう家の不沈に係ると言った様な問題を持って入って来る人もあるんです。
皆様方の本当な事が分ると言う事はですね、矢張り難しい事なんです。けれどもその段々がここがもう18になりますが、18年の間にいつのまにかそのう、もうお参りしなければおられなくなって、そのう信心が続いておる。なら17年も18年も信心は続いておるけれども、果してその神様があぁしてほしいこうして欲しいと仰る様なところへ添うていっておる信心かどうか。まぁいうなら信心をしておれば一年一年有難うなると仰るけれども。もう10何年にもなるけど。
そのう有り難くはなってないと言う、言う様な場合です。ね。それでもやはり確かにあのうおかげも頂くし、そうたいした信心の有難さも感じている訳でもないけども。なんとなしもうやめられないと言う様な、結局浮いた浮いたの酒を飲むと言う様な事で、ずうっとべったりに信心は続けられておると言う。これはもう30年40年2代から3代と言う風に信心が継承されて行くに従って。そういう稽古が親が信心しておるけん僕たちもしておるんだと言った様なね。
そしてやっぱり金光様がやっぱり一番性に合うとると言った様な程度の事で信心が続けられておるとするとこれがひとつ問題になる。そりゃもうやっぱり家庭と言うものがそうですね。あのう先程夕方ですけれどもお参りしてみえた。剛腹な人があります。まぁ一日( ? )たいしてこうですよ、それに毎日お参りさして貰う、難儀な問題がそれこそ難儀な問題をもっとられるんですよ。けれども信心がなかなか解らないんですね、わかろうと努めないないんです。
あまりにも難儀が大きいから、もう余裕がないお話を聞いても。入らないのです、それでもやはり苦しいからまぁお参りして見えられる訳なんですけれども。先日もあのう福岡の方へ行ったんですね。初めもう金光様に毎日日参する。今日はもう甘木の方がきちっと居るけんで、甘木の金光様でも良かろうじゃないかと主人が申します。それでも足元を出した金光様には変わりはないけんで。なら甘木に参りましょうかっち言って甘木に参ったです。そりゃもう大した立派な教会だったですけども。
ちょっとあのう入り口で躊躇いたしました。というのも、あまりにももうこのう広壮な建築というですかね。なんかこう入りにくい。それに引き換えてあのう合楽、主人が一番初めにここにこさして頂いた時に、それをもうしました。あっちの教会ちゃ本当に入り良うか教会で、中に入ったらなんか知らんけれど、もうあれだけでもお参りして見ようと言う気がしたと言うて、主人が申しますけん、主人と二人でそう話されるんですよ。入り良いてここは。
やっぱりあの神様設計なさったところのお広前だと私は思うんですよ。ですからそのそう言う例えば、入る、入り良い例えばお広前にお互いご縁を、入り良いからはいってきたんですね。言うならば気安う。けれどもその気安うはいってきたけれども、いつの間にか内々のごとなってしもうて、いよいよこれでは家庭的なその雰囲気があると言うて、まぁある意味ではそうなるですけれども。
いよいよそれに慣れっこになってしまう。それでまぁ学生会の人達や青年会の方達が、もう裏の方へ行ってもう自分の部屋やら人の部屋やら分らんごと成ってしまう。もうそりゃほんと家庭的でいいんですけれどもですね。ここはちょっと考えなきゃいけないとこがあるんですよ。大体言うたらもうあのうお道の信心であるときに、裏の方へ入る様になったらおかげを落とすとさえいわれておるのです。何故って言うとその裏の方でね家庭のものの。例えば信心のない姿に触れたんですね。
まぁ言うならここにいつもかつも神様ごとばっかりしとらんもんですから、そういうとこに触れた時に、教会の人達でちゃこんくらいの事ちゃいと言った様なものがですよ。おかげの頂けないもとになるんです。だから一利一害なんですねやはり、そんなことで甘木かたに行ったらどっこい御用にゃとてもとてもはいらりゃせんです。ここはしかし裏の御用に吸い込まれる様に入って行けれるような仕組みに、仕組みになっとるわけじゃないけれど、そういう作りになってるんですよね。
そりゃもうほんとにもうわたしゃちょっとことくなもんでも今日は入ろうかと思うて、もう皆んなで占領しとるから、こっちは遠慮せにゃん、いうな状態でいいようであってもそのう、いわゆるどうかとこう思うんですけどね。あぁ言う事からの信心が、段々御祈念する事も有り難い話を聞く事も有り難いけれども。ならそれがただ何とはなしに、金光様と親戚になったごたる気持ちでですたいね
続けられた信心が何時の間にかのなんちゅうか流されたと言う事になって来ておったんだったらこれは考えなきゃいけないと思うんですよ。ひとつあのうここんにきをよく頂かなきゃいけないですね。ですからその遠慮せろと言うのじゃない。またというてまたくそ遠慮しちゃならないと言う風になかなかそのう信心が難しい、ま、その様なことが原因になったと言う事じゃないですけれどもね。
只そうやって何とはなしに教会とは親密感が出来て、信心が止められないと言った様なもんであったらつまらんですね。それが例えば、子供に孫に続いただけではつまらない。そこで私しはそのう本当に思うんですけども。それこそ世界は二人の為にあるのだと言った様な信心が、本当に分からなければいけない。どうでしょうかね、お広前は私し一人の為にある。世界は私しの為にあるのだ。私の為にあるのです。ですから私しの為にあるものだったらこれを大事にしなければいけないじゃないですか。
私よりも大事にしなければいけない。私自身、私の為に世界がある。私の為に一切がある。親鸞聖人様がその自分の周囲の一切の事が、「われ親鸞人のためにある」と言う様なな意味のことを言うとられますよね。その中には嬉しいこともありゃ悲しい事もある。歯がゆい事もあるべきこともある。その事一切が私し一人の為にあるのだ。例えば人間関係でもです、人間観件でも、私しには敵役の様な人がある。けれどもそれも私しの為にこれがあるのだと。
金銭に難儀をしとる人があります。その難儀私し一人の為にあるのだと。病気で苦しんどる人があります。その病気は私し一人の為にあるのだと。私の為にこの病気があるのだと。ここんところをです。お互いに生活の現場を大事にせろとこう仰る。教祖様は。私の為にある世界。私の為にある問題。私の為にあるあの人この人である。もう私しの為にあるのですから、是を大事にしなければしなければいけないじゃないですか。私はここんところを大事にしなっかったら、ここんとこからの信心はもう駄目だと私は。
この生活の現場のその事を、実意丁寧に頂いて行かなかったら金光様の御信心はもう駄目だと思う。例えば先程見えたお二人の方なんかでも、私しはあのういろんな障害物があってもですね、普通の人はそれを乗り越え乗り越えと言った様な事を申しますけれども。成程乗り越えて行っておかげを頂く人があるかもしれんけども。金光様の信心は乗り越えるのじゃない、それを抱いて行くのだという。
障害を乗り越えるとじゃなくて、生涯を大事にせろとか、その頂いていくと言う事はどう言う意味ですかと言う様な事を問われましたから。私しはここの13日会が出来た時の事を離しました。今日は信心が一歩前進した様な気が致しますと言うて帰られました。あれを例えば、私しはそういう例えば、障害があるお参りしちゃ出来んごたる雰囲気が出来た。誰がなんでんな事言うか、俺は自分の金で俺が参るとに、お前どんが支配を受けんでもいいぞと、いうてそこを乗り越えていっとってもいいですよ。
しかし乗り越えて行ったんではほんとの神様のおかげは生まれてこないです。自分の力で開いていく道は開けるかも知れんけどそれじゃたかが知れとる。だから乗り越え乗り越えじゃないのです。それを頂いていくと言うのが、そのことも私しの為にあるのだと、合楽の為にあるのだと頂いて、おかげで、例えばこういう御造営と言った事にもなったんですよと言うて話をさせて頂いたんですけれどね。ははぁ信心が一歩前進した気が致しますこういわれる。信心とはそれなんだ。
世界は私し一人の為にあるのだ、その問題は私し一人の為にあるのだ。私の為にあるのならば、その私しの為にあるそれを、実意丁寧に大事にして行かななければいけない事が分る。敵役のその人を大事にしなさい。難儀な問題を大事にしなさい。自分がその難渋しておるその、私しの為にある難儀ならば、私しの為にある難儀を大事にすると言う事は。そんならどう言う様な事はと言う事を、見らせて頂く様な信心をです自分の信心の親書とさせてもらう。
そういう信心をいわば土台にしたところの信心で行くなら、どんなに例えて申しますならです。教会と親戚付き合いのごとなったちゃいいと思うです。そりゃ俳優が良いです。けれどもそこんところをね、抜きにしてですね。例えば、あのう押し流される様にして、信心がもうやめるにもやめられないような、信心の状態になっておるとするなら、それは本当に今なら、なんですかね心にもないと言う事になってくるし。信心が有り難いものになって来ない。
それこそ神様とはもう親子だから、ほんなこと神様と親子んごとなっていいです。けれどもですね。私は今日今その申します様に二人は二人の為にある世界。私の一人の為にある世界と言う様な頂き方なんです。総いう頂き方が出来てです。そこんところを大事にして行けれる様な信心なら、もう必ず信心をしておれば一年一年有難うなって来ると仰る、有難うなって来る道が開けて来る。その有り難いと言う心におのずと開けて来る道、おかげが頂かれる。
そういうおかげを頂きたいね。いつの間にか何とはなしに。初めの頃は差ほどにはなかったけれど。いつの間にか騙されてしもうとった。いつの間にか浮いた浮いたになってしもうておった。それで言わば関係が出来、手続きやら出来て行っておると言った様な信心であってはならないのです。入り口はそれで良いに致しましてもです。内容はいよいよ世界は私し一人のためにあるのだ。私の周辺に起てくる一切の事が。難儀もう一切が私し一人の為にあるのです。
私し一人の為にあるのだから、それを私し一人の為にあるのじゃから、私しはそれを大事にしなかったら信心にならないと言う事なんです。障害を乗り越えようとしとる事はないだろうか。乗り越えたんじゃそれだけです。我力が出来るだけです。それを頂いていかなければ、それを味合わなければ、何故どうしてこの様なと言う事になって来ない。そこんところを私しゃ頂いて行かなけりゃならん。今私しが申しましたけど、ネオンがあってね、その歌のそこのとこだけけ聞かして頂いて行ったら分りませんけども。
なんかそういう歌詞であったと、そういう調子であった、世界は二人の為にあるのと言う歌も聞いたことがあるが、それでその二つのこのリズムをこう、御祈念ちゅうに頂いてこの事から神様何を教えようとしておられるか。何を分らせようとしておられるだろうかと、思わせて頂いたら只今の様な事を分らせて頂いたのです。ですからお互いの信心これからも勿論続く事でございましょうがです。ただ連々だらだらとですね。
何とはなしにもう引くに引かれんごとなってから、続けられておると言うな信心じゃつまらない。もう段々それが密なものになっていくために。いよいよ有り難いものになって行く為に、世界は私し一人の為にあるのだと言う様な自覚。だからそんならばです私しの為にあるものをです大事にしなければならないと言う事をです。そこんところを実意を込めてその問題と対決して行くというかね。その問題を頂いていくと言う、あのう信心姿勢ね、それが必要だと言う事なんです。
どうぞ。